一番札所は北条氏の霊を弔うために1333年に建立された宝戒寺です。宝戒寺近くにある、現在では寂しい草っ原となっている東勝寺跡地。その隣に設けられた、北条高時腹切やぐら。かつてここで悲惨な最期を遂げた北条氏とともに鎌倉時代は終焉を迎えたのでした。そんな壮絶な歴史を今に伝える貴重な遺跡を管理しているのが宝戒寺なのです。そんな歴史ある宝戒寺ですが「萩の寺」ともいわれ、秋になると溢れんばかりの白い萩の花が本堂前に咲き誇る、美しい景観を持ったお寺さんでもあります。
宝戒寺の本堂は、靴を脱いで上がる事が出来ます。たくさんのお寺が鎌倉にはありますが、意外とお堂に入れるお寺さんは少ないように思います。宝戒寺の本堂には8体の仏像が祀られています。ご本尊は今回の目的でもある「子育経読地蔵菩薩」さま。地蔵菩薩の中でも特に子供を救済してくれるお地蔵さまとされています。なんとも穏やかな優しいお顔をしたお地蔵さまです。目の前にして正座をし、お賽銭して一礼して。心が正されていくような気がしてきます。静かなお堂の中で感じる、至福のひとときです。
御朱印は本堂内の受付で頂くことができます。二十四地蔵巡り専用の御朱印帳というものはないのですが、自由に使える御朱印帳が揃っているので私はここで購入しました。一から二十四まで順番に巡れなくても、このタイプなら後から順番を変えられますよ〜とご住職さんが教えてくれました。
二番札所は閑静な住宅街の中にある西御門の来迎寺です。1293年に起きた大地震で亡くなった人々を弔うために建てられたと伝わります。岩上地蔵さまは、鎌倉一美しい仏像と呼ばれる如意輪観世音さまなどと供に本堂に祀られています。岩のような台座に座っている姿からこのように呼ばれます。
来迎寺は山門などが残っておらず、現在残るのは本堂と庫裏のみです。今風で新しい本堂へと続く階段には、四季折々美しい花が咲いています。7月初旬に訪れるとちょうど紫陽花が咲き終わったところで、夏の花であるフヨウが咲き始めハスがつぼみを付け始めていました。本堂にお参りしたあと、庫裏に立ち寄り御朱印を書いていただきました。庫裏はお寺というよりも人の家にお邪魔したかのような暖かな雰囲気です。
岩上地蔵さまはもともとは西御門にあり廃寺となった報恩寺の御本尊でした。仏師宅間浄宏(たくまじょうこう)によって作られ、報恩寺が廃寺となったあと大平寺に移され、その大平寺も廃寺に。その後法華堂へ移されましたがこちらも廃堂となったために現在の来迎寺へやってきました。転々と様々な寺院を移動してきたお地蔵様は、元の西御門という安堵の地にようやくとどまることができたのです。再び移動するようなことが無いように祈ってやみません。ちなみにお地蔵様にお会いするためには、事前に電話で堂内拝観の申し出をしておく必要があります。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
三番札所は鎌倉一静かなお寺・覚園寺の黒地蔵さまです。自由拝観できるエリアでは黒地蔵さまにはお会いできません。毎日決まった時間にお寺の人が一緒に境内の主なエリアを案内をしてくれるので、その時に地蔵堂にもお参りすることができます。毎年8月10日に行われる「黒地蔵盆」という行事で主役となる黒地蔵さま。この時だけは境内すべてが解放され、誰でも拝観可能となる特別な1日なので一度足を運んでみると黒地蔵さまをより身近に感じられることでしょう。
御朱印は拝観案内所で頂くことができます。覚園寺の拝観案内に参加し自由拝観できないエリアに一歩足を踏み入れると、本当に現代を忘れてしまうかのような中世の雰囲気を感じることができます。おそらく昔からさほど変わらない景観を保ち続けているのだろうと感じずにはいられません。背の高い木々の木の葉が揺れる音、鳥のさえずりや虫の羽音。都会の喧騒を忘れさせてくれる境内は鎌倉で一番静かだといわれるのも納得です。鎌倉の中心部から離れているので訪れる参拝客も少なく、この事も功を奏して絶妙な雰囲気を作り出しているのです。
黒地蔵さまは本堂の薬師堂手前に建つ地蔵堂の中に祀られています。等身大のお地蔵さまはとても立派な佇まいで威厳のある表情をしており、「黒」と呼ばれる通り少し黒ずんだ色をしています。伝承では「地蔵尊は地獄を廻って罪人の苦しみを見るに絶えず、自ら獄卒に変わって火を焚き、罪人の苦しみを軽減させようとした。そのため火を身体に受け全身が黒ずんでしまった。それ以来どんなに彩色しても一夜で元の黒い姿に戻る」と伝わります。黒地蔵盆のときには実に多くの人々が訪れ、黒地蔵さまに亡き人が安らかであるようにと、真夏の暑い中でも願いを託しにやって来ます。こうして今でも多くの人を救っている黒地蔵さまからは、現世とあの世の橋渡しを妙にリアルに感じました。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
四番札所は鎌倉最古のお寺・杉本寺の身代地蔵です。731年に行基によって建てられた杉本寺は、今でも杉本観音さまと呼ばれ地域で親しまれるお寺さんです。「身代地蔵」と名の付くお地蔵さまは杉本寺には二つあり、一つは観音堂の中に祀られる運慶作といわれる立派なお地蔵さま。もう一つは観音堂の脇に並ぶ六地蔵と共に祀られた「杉本太郎身代地蔵」という伝説を持つお地蔵さまです。一般に二十四地蔵のお地蔵さまは後者を指すようですが、実際に御朱印を頂くときに尋ねると、前者の身代地蔵さまをお寺の方が教えてくれたので、どちらにもお参りしておくと良いかもしれません。
金沢街道の道路沿いにある杉本寺は、数ある鎌倉の寺院の中で、最も間近で仏像を見ることができる素晴らしい仏像ワールドです。本堂は金沢街道から見上げる高台に建っており、参道は上へと続く長い階段。中間地点に仁王門があり、赤い顔をした仁王像が左右から睨みを効かせています。その先には時の流れを感じる一面が苔生した階段。保全のため現在ではひとつの文化財のように扱われています。当然実際登ることはできず、参拝者は新しく作られた回り道を通って本堂を目指します。
茅葺き屋根の本堂の中にいる身代地蔵さまは入って左側の一番端に祀られます。そのお隣は六番札所の尼将軍地蔵さま。身代地蔵さまは等身大で赤い布を左手に持ち、足元にはわらじが供えられています。横に目をやると、小さな身代地蔵さまを型どったお守りに願い事が書かれ、いくつも並んでいました。こちらは本堂の拝観口でお願いすると奉納することが可能。一方、本堂の脇に六地蔵と供に並ぶ杉本太郎身代地蔵さまはお顔はよくわからないほどに風化が激しいです。名前の由来には、かつて杉本寺の後ろにあった杉本城を建てた杉本太郎義宗という人物が関わっています。伝承では「ある夜、杉本太郎義宗が杉本観音に参拝し石段を下っていると、隠れていた敵兵に二本の矢を放たれた。命中したかに思われたが、義宗は悠然とそのまま立ち去った。敵兵が確認をしたところ放たれた矢は石の地蔵尊の胸と腹に刺さり鮮血が滲んでいたという」と伝わります。義宗の念持仏だったといわれる石のお地蔵さまはそれ以来身代地蔵と呼ばれるようになったといいます。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
五番札所は金沢街道の奥の方にある光触寺の塩嘗地蔵さまです。近くにある朝比奈切通しは今でもハイキングコースとして残っていますが、中世では「塩の道」と呼ばれ、六浦の貿易港と鎌倉中心部をつなぐ重要な道でした。伝承によると、塩の行商人が行き道にお地蔵さまに初穂の塩をひとつまみお供えしておいたところ、帰りにはすべて綺麗に無くなっていたことからこのように呼ばれるようになりました。
十二所にある光触寺は、金沢街道の人気のある浄妙寺や報国寺からだいぶ離れた場所にあります。遠いうえに閑静な住宅街の中にあるため訪れる観光客はほぼ無く、とても静かな寺院です。一般の参拝客に解放されている境内は小さく、本堂と墓苑と一遍上人の像、そして地蔵堂があるのみです。訪れたのは2回目でしたが、毎回なぜか雨に降られます。関係者しか立ち入れない美しい庭園は綺麗に手入れがされていて、しとしと降る雨に植物たちが喜んでいるようでした。
本堂にお参りし、脇にあるインターホンを押すと御朱印に対応してくれます。光触寺は三十三観音の札所にもなっているので、お地蔵さまの御朱印を…と伝えます。書いて頂いてる間、本堂の襖を開けてくれたので中を覗くことが出来ました。煌びやかな装飾がなされていて、外観から想像するよりも立派です。「お地蔵さまはそちらですよ。」とお寺の方が親切に地蔵堂を教えてくれました。地蔵堂では六地蔵さまが塩嘗地蔵さまを守るかのように前列に並びます。かつては「塩の道」に祀られていた塩嘗地蔵さまの前には、今でもお供えされた塩の山が。お地蔵さまのお顔は風化したせいか凹凸が少なくのっぺりしていて、時の流れを感じる風貌をしています。かつては行き来する商人たちを見守っていたお地蔵さまは、静かなお寺で御朱印めぐりの私達を御守りしてくれていました。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
六番札所は杉本寺の尼将軍地蔵さまです。四番の身代地蔵さまと同様に杉本寺にいらっしゃるので一緒にお参りすると良いと思います。尼将軍地蔵さまは茅葺き屋根の本堂に祀られています。水子供養と札のあるお地蔵さまで、本堂に上がって左側に立つ二体のお地蔵さまの右側です。仏師安阿弥(あんあみ)作といわれる立派なお地蔵さまです。それがかなりの至近距離で参拝が可能。二十四地蔵の中でもこんなに近くで見られるのは杉本寺だけ、きっと貴重な体験になることでしょう。
本堂の拝観受付にはお守りなどが並び、こちらで御朱印も頂けます。杉本寺の本堂は鎌倉屈指の仏像ワールドで、秘仏となっているご本尊の十一面観音菩薩をはじめ、多くの仏さまが祀られています。茅葺き屋根の本堂の内部は木造で、見上げると長い年月が経っていそうな千社札がいくつも貼られ、独特の世界観を醸しだします。杉本寺は鎌倉一古い寺院で名僧行基によって731年に建てられており、他の寺院の追随を許さない何か特別な空気を感じるのです。六番札所の尼将軍地蔵さまもこの特別な空間で、並並ならぬ存在感を放っていました。
「尼将軍」と聞くとぱっと北条政子が思い浮かび、いかにも強そうな様子を想像しますが、北条政子にゆかりがあるというわけではないようです。詳細は不明ですが、日本各地で敵を降伏させることを願った「将軍地蔵」と呼ばれるお地蔵さまがみられ、中世以降は特に武士の信仰を集めたといわれています。おそらく尼将軍地蔵さまも武士が台頭した鎌倉時代以降に戦の勝利を願って祀られたと考えられているようです。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
七番札所は二階堂の谷戸の奥に静かに佇む瑞泉寺です。中心部から少し離れた場所にある瑞泉寺は、深く緑の山に囲まれ山号を錦屏山と称します。屏風のように美しい山々の紅葉から名付けられたもので、秋が深まる頃になれば、中世の人々も感動したのであろう素晴らしい景色を今でも魅せてくれます。
瑞泉寺といえば名勝瑞泉寺庭園が有名ですが、今回の主役はその手前にある小さな地蔵堂です。どこもく地蔵堂と呼ばれるこの地蔵堂は、大正6年になってから瑞泉寺に建てられたものです。どこもく地蔵は「どこも苦地蔵」とも表されます。もとは廃堂となった智岸寺ガ谷の地蔵堂本尊でしたが、その後、大正時代に瑞泉寺に移るまで6回も引っ越しをしているのです。伝承によると『昔、地蔵堂を守っていた僧は貧乏に絶えられず、他所へ移って生活しようとした。その晩、夢枕に現れた地蔵菩薩が「どこも、どこも(同じ)」と言った。僧はどこへ行っても同じだと悟った。』ということです。この伝承は『雑念や煩悩など修行の苦しさを乗り越えてこそ、真の救いがある』という禅の精神をわかりやすく民衆に伝えるためのものだったそうです。どこもく地蔵さまは、寺院の廃絶などによって翻弄されて来たわけですが「どこへいっても同じ」ように人々を見守り導いてこられたのでしょうね。等身大の真っ黒な体をしたお地蔵さまからは、何か力強いものを感じました。
御朱印は境内の右側に位置する庫裏で頂くことが出来ます。三十三観音など他の御朱印もあるお寺なので、お地蔵さまめぐりをしていることを伝えると良いですよ。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
八番札所の円応寺は、閻魔大王さまを中心とした地獄の十王が祀られた場所。建長寺のお隣にポツリとあるとても小さな境内ですが、誰しもが興味のある「人の死後」をわかりやすく垣間みれるお寺さんです。参拝者はどの人も熱心に地獄の番人たちと対面しているのが印象的です。
急な階段を登ると、右側の石碑に刻まれた「閻魔王」と力強い文字に迎えられます。山門をくぐった先に寺務所があり、こちらで拝観料と御朱印をお願いしました。「詫言(わびごと)地蔵菩薩」さまがどちらにいるかと訪ねると、本堂に入って左側にいらっしゃると教えてくれました。詫言地蔵…とは呼び名であるのだそうで、お堂の中では「延命地蔵」と記されていました。『地獄へ堕ちた人々も救うといわれ、十王思想と地蔵信仰が平行した。』との記述があります。
十王思想では生前の行いを10人の審判によって裁かれ、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)のどこへ転生するかが決定されます。そもそも六道すべての者を救うのがお地蔵さまとされています。この十王の審判の場に登場する延命地蔵さまは、亡者に代わって閻魔大王に「詫び言」を述べて助けてくれる…という、ヒーローみたいなお地蔵さまなのです。円応寺のお堂内は右側から左回りに、1番目の王…10番目の王と並んでいます。10番目に至るまでのそれぞれの王は、地獄の裁きを行いながらも亡者を救う手だてを用意してくれています。10番目の王のさらにあとに登場しているのがこの延命地蔵さまなので、本当に最後の最後の頼みの綱…といったところなのでしょうね。ちなみに閻魔大王も実は地蔵菩薩でもあるんですよ。
地蔵巡りをする上で、お地蔵さまがどんな存在なのか…ということを知るのは意味があったなぁとしみじみ感じられた円応寺でした。
九番札所は建長寺の仏殿に祀られている心平寺地蔵さまです。朱印所が拝観口の向かい側にあるので、十番札所の済田地蔵さまと合わせて先にこちらで御朱印帳を預けました。「お地蔵さまの御朱印をお願いします。」と一言添えると良いですよ。その足でお地蔵さまが祀られた仏殿へと向かいます。
九番札所の心平寺地蔵さまは建長寺の創建前からこの地を見守ってこられた唯一の存在なのです。建長寺が北条時頼によって創建された1253年より前、このあたりの土地は「地獄ガ谷(じごくがやつ)」と呼ばれる墓地のようなものでした。亡くなった者が遺棄されたり、また、処刑場としての役割も担っていたそうです。地獄のような恐ろしい場所だったのでしょう。それらの者を弔う目的で、ここには心平寺と呼ばれるお寺が建っていたのです。そしてそのご本尊が現在「心平寺地蔵」と呼ばれている地蔵菩薩像でした。現在、心平寺のお堂は天授院として横浜の三渓園に移築されています。ちなみに、建長寺のご本尊が釈迦如来ではなく地蔵菩薩なのは、心平寺のご本尊が地蔵菩薩だったからだと伝わっているそうです(Wikipediaより)。
この心平寺地蔵さまがどこにいらっしゃるか…というのがとてもわかりにくいです。仏殿には大きくて存在感のある建長寺ご本尊の地蔵菩薩さまがいらっしゃいます。向かって右手奥に並んでいる、千体地蔵と呼ばれるたくさんの小さなお地蔵さまと一緒に座っていらっしゃるのが心平寺地蔵さま。ちょうど柱の影になって、参拝できる場所からはしっかりと姿を見る事ができません。黒いお地蔵さまであることは確認できました。ご本尊にご挨拶したあと、そちらに向かって一礼一拝。誰よりも長く、この土地を眺めてきた心平寺地蔵さま。建長寺の歴史を知る、良いキッカケになりました。
十番札所は九番札所に続いて建長寺です。鎌倉五山第一位の広大な敷地に建つ、立派な仏殿が十番札所の済田地蔵さまの歴史を紐解く舞台です。梅雨入り前の爽やかな快晴のもと、建長寺は小学生の遠足やバスツアーなどで賑わっていて、「地獄ガ谷」と呼ばれた面影はどこにも無いような気がしてきます。
御朱印は九番の心平寺地蔵さまと一緒に朱印所でお願いしました。心平寺地蔵さまと同様に仏殿にゆかりのある済田地蔵さま。その云われは、御朱印を頂いたあとに挟んである紙に書かれていました。『仁治2年(1241年)の夏、名越に住んでいた済田左衛門は無実の罪で捕えられ地獄谷の刑場にいました。あわや首を討たれるという時に必死にお地蔵さまに祈ると、地蔵菩薩が身代わりとなり無実の罪を救われました。それ以来、身代わりの地蔵菩薩と呼ばれるようになりました。』現在はどこにいらっしゃるのか…というと、11月の宝物風入の資料に記載がありました。『身代わりとなった済田地蔵は、心平寺地蔵の胎内に納められ、その後、建長寺のご本尊である地蔵菩薩の胎内に納められたと伝わる。』現在は別の場所で保管されていてお目にかかる事はできず、11月の宝物風入の時にだけ公開されています。直接は拝めませんが、建長寺ご本尊の地蔵菩薩さまに参拝すれば間違いないでしょう。
九番と十番のお地蔵さまを巡って、建長寺がお地蔵さまと深い関わりがあったことを知る事ができました。建長寺のご本尊に再び地蔵菩薩さまを祀ったのも、ここがかつては地獄ガ谷と呼ばれるような場所だったことを忘れないようにするため…だったのかもしれませんね。
十一番札所は九番・十番に続き建長寺です。おそらく二十四地蔵さまの御朱印巡りで最もハードな道のりとなることでしょう。御朱印を頂くためには建長寺奥地に位置する半僧坊まで出向かなければいけませんので、歩きやすい靴でお出掛けください。法堂の池を回り込み、半僧坊へと続く参道へ向かいます。真っ直ぐと伸びる参道は意外に長く、鳥居を二つくぐれば長い階段へと到着。ここから250段余りの階段を登れば、鳥天狗たちの待つ半僧坊へとたどり着くのです。息も上がるほどの運動量で参拝者は汗を拭きながら黙々と登って行きます。大変な道のりであるぶん、頂上からの景色は格別。建長寺の仏殿や法堂を上から見下ろせ、さらにその彼方に相模湾を望みます。この素晴らしい景観のもとに十一番札所の勝上献地蔵さまがおられるのです。
御朱印は半僧坊の御守りなどが売られている窓口で書いて頂けます。たまたまお昼時だったからなのか、誰もいらっしゃらずしばらく待ちぼうけしていました。前のベンチで休めるのでちょうど良い休憩になりましたが。何も言わなければ「半僧坊大権現」と書かれてしまうので「二十四地蔵巡り」ということを伝えると良いでしょう。
半僧坊から天園ハイキングコースへと向かう入り口に地蔵堂があり、ここに勝上献地蔵さまが祀られています。勝上献とは、勝上ケ嶽(しょうじょうがたけ)とも呼ばれる、地蔵堂から階段を登ったこの山の頂上のことを差しています。お堂はちょうど相模湾を望める位置にあり、開かれた扉の向こうには全身が金色に輝くお地蔵さまの姿。文献などを調べると、私が見たのとは違うお地蔵さまの姿が記されていました。それによれば、運慶が作ったと伝わるお地蔵さまがいて顔から首にかけて金箔が残り左手の肘から下は欠損している、と。調べても分からなかったのですが、どうやらここ最近になって修復されたのか新しいお地蔵さまになったのか…というところなのでしょう。また機会があれば半僧坊で訪ねてみたいと思います。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
十二番札所の浄智寺は、後ろに背負った山と見事に調和した緑の美しいお寺です。総門前の小さな石橋や拝観口前の石段がとても印象的で、苔生していたり一部が欠けていたりするところが、歴史を感じさせてくれます。北鎌倉と源氏山をつなぐハイキングコースの入り口に位置していて、スポーティな格好の人にもたくさん出会います。参拝客からの一番人気は、境内奥地にいらっしゃる、江ノ島鎌倉七福神の一人でもある布袋尊さま。ポッコリ出たおなかがチャーミングで、このおなかを撫でると元気がもらえるということで大人気です。
今回の二十四地蔵尊に数えられる聖比丘地蔵菩薩さまはというと…残念ながら現在は浄智寺にはおらず、鎌倉国宝館にいらっしゃるとのこと。名前の由来もよくわかっていないそうですが、「比丘(びく)」とは仏教における正式な男性修行者のことを指しています。「聖」と付いているので、高僧のことを総じて示しているのだろう、とは考えられますね。是非一度、鎌倉国宝館にも足を運んでみましょう。
御朱印は拝観口の裏手側、拝観順路とは反対方面にある書院の横の庫裏で頂けます。御朱印帳を渡してしばらく待っていましょう。浄智寺の書院は表から見ても、裏から見ても、実に風情のある佇まいです。特に春は色鮮やかな花々がお庭に咲き、素朴な茅葺き屋根の書院を彩ります。現代人が忘れてしまった日本の古き良き風景を映し出しているかのよう。窓枠に切り取られた風景は素朴ながらとても美しいものです。
十三番札所の円覚寺の塔頭である正続院は、広い境内の奥の方に位置しています。秋には美しい紅葉で彩られる妙高池を左手に回り込むと、正続院の閉ざされた門へ到着します。境内には国宝の舎利殿もあり、普段は公開されることのない場所です(写真は2016年11月、円覚寺・宝物風入の特別公開時に撮影したものです)。円覚寺の開山である無学祖元は建長寺で亡くなり、建長寺に墓塔が建てられました。それから約半世紀後、無学祖元の墓塔は夢窓国師によって建長寺から現在の場所に移され、正続院と呼ばれるようになったと伝わります。
非公開の正続院なので、御朱印はこちらでは頂くことができません。御朱印は円覚寺拝観口のお隣にある納経所で書いてもらいました。先にお参りをしてから帰り際に納経所へ立ち寄って御朱帳を預けたのですが、先客がたくさんいらしたようでした。私がもう参拝を済ませているのを悟ったお寺の方が「参拝がお済みのようですので、先に書きますね。」と気を利かせてくれ、少し申し訳ない気持ちに。納経所は御朱印専門の方が書いているので、やはりかなりお上手でした。
手引地蔵の名の云われははっきりとわかっていないようですが、ふと、八番札所の円応寺でみた十王思想を思い出しました。『…亡者はお地蔵様に手を引かれて三途の川を渡る。』お地蔵様は全ての者を救うといわれますが、誰かを救うときに必ず手を引いて下さるものなのでしょうね。二十四地蔵さまを巡っていると色々な名前のお地蔵様に出会いますが、本質はきっと同じで慈悲深くて優しい、偉大な存在なのだなぁと改めて感じた正続院でした。
十四番札所も十三番に続き、円覚寺の塔頭である佛日庵です。こちらも円覚寺境内の奥地にありますが、正続院とは異なり開かれた場所となっています。円覚寺にはお抹茶が常時頂ける場所が三カ所あり、そのうちのひとつでもあります。拝観には別途100円、これだけでとてもゆったりと時を過ごせる佛日庵なのです(お抹茶代も込だと500円)。御朱印は拝観料を払う時にお願いをし、書いて頂いている間にお参りをしました。佛日庵は、他に鎌倉三十三観音の三十三番札所にもなっているので「お地蔵様の御朱印をお願いします」と声を掛けましょう。
「UNIQUELY鎌倉」お寺のお庭とお抹茶特集
日本が2度に渡り元から攻められた元寇では、国土を守りきったものの多くの戦死者を出しました。円覚寺はそんな両軍の兵士を弔う目的で、北条時宗公が建てたお寺です。ここ佛日庵は開基である北条時宗公を祀ったお寺で、茅葺き屋根の開基廟の下には時宗公の遺骨が納められていると伝わります。
二十四地蔵十四番札所の延命地蔵菩薩さまは、本堂にお祀りされている佛日庵のご本尊。わりと小振りな坐像で南北朝時代のものです。お寺をまわっていると、延命地蔵さまはわりと多くの場所で見かけることがあります。一般的には、新しく生まれた子を守ってくれて寿命を伸ばしてくれるお地蔵さまといわれます。靴を脱ぎ本堂に上がって、延命地蔵さまに一礼一拝。数秒感のこの静かな時間が心地良く、気付けばすっかりお寺参りの虜です。
十五番札所は海蔵寺の岩船地蔵さまです。海蔵寺は扇ガ谷の最奥にある、鎌倉一綺麗なお庭を持つお寺さん。花と水の寺とも呼ばれ、谷戸特有の湿度を一年中保っています。湿度というと梅雨のじめじめをイメージしがちですが、海蔵寺の足元を流れる水はしっとりと艶やかな印象をお寺にプラスしています。
岩船地蔵さまは海蔵寺の境内にはいらっしゃらず、亀ケ谷坂の扇ガ谷側入り口にある横須賀線高架下近くの小さなお堂に祀られています。岩船地蔵堂と呼ばれるこのお堂は、源頼朝の娘・大姫を供養するための地蔵堂です。住宅街に紛れるようにお堂だけがポツリと建っています。晴れた日だけ中を覗けるようになっていて、お地蔵さまにお会いすることができます。
源頼朝と対立していた木曽義仲の息子・木曽義高は人質として鎌倉に送られていました。形としては大姫の許婚として鎌倉に入っていた義高は、父親が源頼朝の命で殺されて以降は自身も命を狙われる身となってしまいました。それを知った大姫は義高をこっそり逃がしましたが、残念ながら義高も殺されてしまいます。それ以降、大姫は病に伏して若くして亡くなったといいます。大姫はこの亀ケ谷の谷に埋葬され、哀れな死を悼んだ人々によって地蔵堂が建てられたと伝わります。
御朱印は海蔵寺の庫裏でご住職さんに書いていただきました。お地蔵さまのお参りをしていると伝えると丁寧に場所も教えてくれます。海蔵寺にもいくつか御朱印があるのでお地蔵さまの御朱印ということを伝えるようにすると良いですよ。
十六番札所は扇ガ谷にある浄光明寺です。2000年になってから古い敷地絵図が見つかり話題にもなりました。鎌倉の谷戸ならではの環境にあり、山と一体化し自然に寄り添うように建つお寺です。観光地化はほぼしておらず、静かな時間を過ごすことができます。
鎌倉市によると、2017年5月1日現在の鎌倉市の鎌倉地域と呼ばれる中心部の人口はおよそ2万人。鎌倉時代の最盛期には、約3万人もの人々が住んでいたと言われています。山際のお寺は狭い土地で敷地を広げていくために、山を削り平場を作って上へとお寺を拡大していきました。浄光明寺はその様子が今でもそのまま残る貴重な境内なのです。十六番の網引地蔵さまは、そんな平場の三段目にじっと座っておられます。
決まった日だけに公開される2段目以降の平場。ここに上がれないと目的のお地蔵さまに会えないので、木曜・土曜・日曜のいずれかにお地蔵さまにお参りするのがおすすめです。細くて狭い傾いた石段を上がっていくと3段目の平場に到着します。お寺の裏山、といった感じの場所です。開けた平場は広く、低い木と草が映えているだけのちょっと寂しい印象のする場所。奥の岩壁に彫られたやぐらの中に網引地蔵さまがいらっしゃいます。網引地蔵さまは、漁師の網にかかって引き上げられたことからこのように呼ばれています。特別拝観エリアの受付の方に由縁を訪ねると、海から来たので海が一番良く見える高台にお祀りされたのだと教えてくれました。目を細めて笑っているようにも見えるお顔は、遠く海の彼方を見つめているようでした。石造りの網引地蔵さまの背中側には、1313年に供養したことが記されています。
御朱印は境内の入ってすぐ左側の庫裏にて、十七番の矢拾地蔵さまも合わせてお参りした後に頂きました。浄光明寺も御朱印の種類がいくつかあるので、お地蔵さまの御朱印を…とお願いするとスムーズです。
十七番札所の矢拾地蔵さまは十六番に続き浄光明寺です。十六番札所の網引地蔵さまと同様に、木曜・土曜・金曜のみに解放されるエリアでお会いできます。秋には紅葉が美しい、浄光明寺の本堂と不動堂の間を歩いて2段目の平場へと上がります。ここで特別拝観料200円を払うと、これより奥のエリアを拝観できるようになっています。手前にあるのが仏殿で阿弥陀堂と呼ばれます。ここには過去・現在・未来を表す三世仏(釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩)が祀られています。そして、お隣のコンクリートの建物が収蔵庫です。こちらにご本尊の阿弥陀如来さまを含む阿弥陀三尊が納められています。その左脇に静かに佇むのが十七番札所の矢拾地蔵さまです。
浄光明寺は足利氏と関係が深く、南北朝時代の末期、足利尊氏が後醍醐天皇に挙兵する直前までここに籠っていたと言われています。特別拝観エリアの受付で詳しいことが書かれたパンフレットをいただけるのですが、そこにお地蔵さまの由縁が載っていました。それに加えて受付の方がとても丁寧に説明をしてくれます。もともと矢拾地蔵さまは、足利尊氏の弟である足利義直の念持仏(日頃から側に置いて拝む仏像のこと)でした。ある戦の時、矢が無くなってしまった義直のところへ矢を拾い集めた小僧が現れたのだそうです。それは義直が日頃から信仰していたお地蔵さまだったため、矢拾地蔵と呼ばれるようになったと伝わっています。
静かな谷戸に建つ浄光明寺は、観光客も少なくお寺本来の空気を感じられるお寺でした。削り取られたままの岩壁は当時を思わせる風貌で見応えがあります。せっかく御朱印を頂きに行くのならば、奥の平場が公開されている日に是非お出掛けください。
十八番札所の寿福寺は鎌倉五山に列せられるほど、かつては繁栄を見せた大寺院でした。今では一部が残るのみですが、真っ直ぐと伸びる石畳の参道はとても印象的で人気のスポットとなっています。朝一に訪れた寿福寺の参道は、人気が無くとても静か。惣門をくぐった瞬間から、中世にきてしまったかのような雰囲気です。
寿福寺の御朱印を頂くには、寺用がある人しか入れない場所を通るため少しの緊張感が生まれます。石畳の参道の突き当たりを右に行くと、薄い小さな文字で『観光者はこれより先は入れません』の注意書きが。『御朱印の方は内玄関へどうぞ』とあるので、その先へ堂々と入ります。立派な梵鐘を左に見ながら整った中庭を通過すると、内玄関が見えてくるのでインターホンを鳴らして待機。左側の窓口から対応して頂けます。このところはご住職の体調が優れないそうで、書き置きの御朱印になっているようでした。ちなみに、寿福寺は鎌倉十三仏、鎌倉三十三観音、鎌倉二十四地蔵と3つの札所になっているため、「お地蔵さまの御朱印をお願いします」とはっきり伝えた方がベターです。
十八番札所の地蔵菩薩さまは現在この場所にはいらっしゃらず鎌倉国宝館に寄託されているため、一度こちらを訪れてみると良いと思います。鎌倉時代の作で、ちょうど人の背丈くらいあるなかなか大きな地蔵菩薩さまです。存在感のある佇まいで穏やかなお顔。全てが一本の木から彫られていて、この時代のものとしては大変貴重だということで国の重要文化財に指定されています。平常展示されているので、常時お目にかかる事ができるはずです。
十九番札所は横須賀市にある東漸寺(とうぜんじ)です。24箇所の中で唯一鎌倉市外にある札所になります。もとは鎌倉の雪ノ下に源頼朝が建てた日金地蔵堂に祀られたお地蔵さまでした。のちに地蔵堂は松原寺(しょうげんじ)となりましたが廃寺となり長谷寺に移されました。その後、訳あって東漸寺に移されたお地蔵さまは、鎌倉を離れた横須賀で大切にされています。
東漸寺は鎌倉から車で45分ほど離れた横須賀市に位置し、三浦一族の城であった衣笠城の跡地からほど近い場所にあります。駅からのアクセスが悪そうだと感じたので車で参拝に行ってきました。交通量の多い道路に面していますが、広めの駐車場があるのでありがたいです。堂々たる立派な「東漸寺」の文字に、すっと上へ伸びる美しい参道と山門。鎌倉にある寺院に負けないくらい立派な佇まいのお寺です。季節は夏、猛暑の中の参拝でしたが三浦半島を吹き抜ける風はとても心地良いものでした。本堂へお参りして庫裏へ御朱印をお願いしにいくと、「書いておくので本堂上がってご覧になってください〜」とのこと。再び本堂へとお参りしました。
本堂の右側に祀られているのが日金地蔵さまです。台座の上に座ったお地蔵さまは実に穏やかな顔をしています。金色に輝くお地蔵さまの手前には、鮮やかな色彩の蓮の葉とつぼみをかたどった装飾。浄土宗の寺院は全般に華やかな装飾が目立ちますが、東漸寺の本堂は天女が描かれた布や木彫りなどが色とりどりで特に綺麗でした。お地蔵さまの云われは伝承によると、『平治の乱の後、伊豆に流された源頼朝は北条政子とともに伊豆熱海峠の日金山に天下統一の思いを込めて地蔵尊を祀った。大願が叶うと、頼朝は地蔵尊を背負って鎌倉に入り八幡宮近くの松原寺に祀った。』と記されています。日金が転じて日銭となり、商売繁盛・所願成就を願う人々の参拝が見られるようになったとのことです。
鎌倉二十四地蔵を回らなければ決してお参りすることがなかった東漸寺ですが、見所のある美しいお寺でした。これもお地蔵さまが繋いでくれた縁です。巡り合わせを大切に生きていきたいと感じた東漸寺でした。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
二十番札所は極楽寺の導地蔵さまです。現在は境内から外れた場所に地蔵堂として祀られています。かつて極楽寺は七堂伽藍に49の子院を従える大寺院だったので、当時は境内にあったものなのでしょう。極楽寺駅を降りて長谷方面に向くと線路の上を通る高架があります。ここを渡って行くと極楽寺の山門になりますが、その途中に赤い屋根の小さなお堂が建っています。提灯が下げられた軒下を覗くと、「導地蔵」の文字が。戸が開いていて公開されている時もあるようですが、私がお参りに行ったときは戸は閉まっていて中の様子ははっきりと分かりませんでした。
導地蔵さまは当初は運慶が造ったものを忍性上人が安置したものでした。しかし、その像は新田義貞の鎌倉攻めの際に焼失、現在のお地蔵さまは室町時代に入ってから造られたものです。「子供たちが病気もせず、元気で素直に育つように地蔵菩薩が慈悲の手を差し伸べてくれる」と伝わり、子供を導いてくれる導地蔵さまとして地域で親しまれ、人々の暮らしに馴染んだ地蔵堂となっているのです。軒下は腰掛けるのにちょうど良い高さで、いつ通っても地域の方や観光客など誰かしらが一休憩しています。ある時は子供たちがたくさん集まっていることもありました。人々を惹き付けるのは、お地蔵さまがここに導いてくれているのかもしれませんね。
御朱印は二十一番の月影地蔵さまと合わせて、極楽寺の庫裏にある朱印所で頂きました。極楽寺もいくつか御朱印の種類があるので「お地蔵さまの御朱印をお願いします」と伝えると良いでしょう。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
二十一番札所は二十番と同様に極楽寺。こちらも現在の境内にはいらっしゃらず、近くに地蔵堂として独立している月影地蔵さまです。月影地蔵堂は導地蔵堂から住宅街の中へとさらに入って行った場所にひっそりと建っています。導地蔵さまが人の集まる「太陽」のような場所にいらっしゃると例えれば、月影地蔵さまは名前の通り「月の影」に隠れるような場所にいらっしゃるといえるかもしれません(勝手な解釈です)。
極楽寺駅から導地蔵堂の前を通り、お寺(極楽寺)の方に折れずに直進。昔ながらの小さな商店を過ぎると小学校が見えてきます。さらにその奥、大きな家が並ぶ住宅街を進みます。地蔵堂なんてなさそうな風景ですが、突然、左に地蔵堂が現れます。このあたりがさすがは鎌倉、といったところです。
綺麗にお手入れがなされた小さな地蔵堂の前には、時の流れを感じさせる苔生した石仏がいくつか立っています。お堂の扉は開かれていて、ちょうど人の背丈くらいの赤い服をまとった白いお地蔵さまの姿が。「月影」という名称は、月影ガ谷という地名から来ていて、現在の江ノ電極楽寺駅と稲村ガ崎駅の中間の線路沿いにあたります。以前はそちらにお堂があり、そのうちに現在の場所に移ってきました。月影地蔵さまの云われには、悲しい童女の物語が伝わっています。「北条業時(なりとき)の家に仕える母子がいた。あるとき食器が割れる音がし、明らかに割ったのは母だったが幼い娘の露が母を庇って名乗り出た。業時は仕方が無く2人に暇を出し、母親は追放、露は確かな家に預けられた。屋敷を出る際に業時は梅小紋の小袖を露に渡したが、母親が奪って行ってしまった。預け先で露は母親と別れた悲しみから病に伏し、幼くして亡くなった。この事を哀れんだ周囲の人々が月影の谷戸に墓を建てた。しばらくすると墓にびっしりと梅の木苔が生え、あたかも袖を通すことの無かった梅小紋の代わりのようだった。」と伝わります。後にその場所に地蔵堂が祀られ月影地蔵と呼ばれるようになったのです。ちなみに現在のお堂の前にある苔生した石仏の中に「露童女」と記された像が残っています。
地蔵堂にお参りした後は、二十番の導地蔵さまと合わせて極楽寺で御朱印を頂きました。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
二十二番札所は材木座ビーチからすぐの場所に建つ光明寺です。浄土宗の関東総本山でもある鎌倉屈指の大寺院の迫力は圧巻。立派な本堂の脇に小さな地蔵堂があり二十二番札所となっている網引延命地蔵さまが祀られています。
光明寺は塔頭などは残っていませんが、堂々とした鎌倉最大級の山門や本堂には目を見張るものがあります。浄土宗という開かれた宗教柄、立派な本堂は常時開放されていて自由に出入りが可能。広大な本堂内は広い畳の間になっており、静かな時間を過ごすことが出来ます。また、本堂から書院や開山堂へと続く回廊からは見事な記主庭園を望みます。訪れたのがちょうど6月の終盤とあって、池に咲く立派な古代ハスにお目にかかれました。今回はお地蔵さま巡りでお参りしたのですが、やはり本堂や庭園の雄大さはいつ来ても素晴らしく良いものです。
地蔵堂に祀られる石造りのお地蔵さまは、もとは小坪路の入り口にあたる裏山のやぐら内に安置されていたものでした。小坪路は名越切通しが開かれる以前、鎌倉と三浦半島を結ぶ重要な道として機能していた道です。往来する人々を見守るためにお地蔵さまは祀られていたのでしょう。現在光明寺に佇むお地蔵さまは、長い間雨風にさらされてきたせいかお顔の凹凸が少なくのっぺりとしています。
御朱印は山門をくぐって左手にある立派な寺務所で頂けました。頂ける御朱印は「延命地蔵」なのですが、十四番札所である円覚寺・佛日庵の延命地蔵さまと区別するためか、一緒に祀られている網引地蔵さまと合わせて「網引延命地蔵」と呼ばれることもあるようです。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
二十三番札所は下馬交差点のガソリンスタンドの裏手に佇む延命寺です。二十二番に続き浄土宗の寺院で、本堂に祀られた身代地蔵さまは裸形像と言われ裸の女性の姿をしており、綺麗な朱色の衣を着せて祀られています。裸地蔵とも呼ばれる事もあるようです。
今では街中にすっかり馴染んだ延命寺は、意識していないとそこがお寺であるとは気づかないほど。コンクリートの外壁に囲まれたお寺の境内は、本堂と庫裏と墓苑があるのみでとてもシンプルです。本堂にお参りし、庫裏の正面玄関でインターホンを押して御朱印を書いていただきます。本堂は前日までに予約しておくと拝観が可能です。予約していなくても、本堂の隙間から中の様子を伺うことはできますよ。正面に御本尊の阿弥陀如来さま、その脇に鎌倉三十三観音のひとつでもある聖観世音さまが祀られます。そして左側に祀られた立派な像が身代地蔵さまです。
身代地蔵さまは真っ白な肌をしていてとても綺麗な朱色の衣を纏っています。実は、身代地蔵さまは裸形像と呼ばれる像で、衣を着ていなければ全裸の女性の姿。鎌倉時代の初期頃から裸形像は作られるようになったといい、今でも鎌倉にいくつかが残っています。北条時頼の夫人によって建てられた延命寺。寺伝によると『北条時頼の夫人が家来たちと双六に興じ、負けた者が一枚ずつ着物を脱ぐ賭けを行った。負け続けた夫人が最後の着物を脱ごうと覚悟を決めた時、裸の地蔵が双六盤の上に現れて夫人の身代りになった。その後女性の姿の裸地蔵を作らせた夫人は守り本尊として深く信仰した』と伝わります。多くの仏像が時間の経過とともに味や良さは出るものの、風化も進んでいきます。裸であることによって常に綺麗な着物を着せてもらえる身代り地蔵さま。時が経ってもいつまでも綺麗でありたい女性にとっては一番良いことかもしれません。そんなことを思った延命寺でした。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
二十四番、最後の札所は大町にある浄土宗の安養院です。山門を入って左側に祀られたのが、定めた日数のうちに願いを叶えてくれるという日限地蔵さま。北条政子の法名から名付けられた寺院は鮮やかなツツジが咲くことでも有名です。
長かった鎌倉二十四地蔵巡りもこれで終末かと思うとなんだか寂しくなってくる二十四番札所。小さな境内ながらとても雰囲気のある安養院は、ツツジが満開になる季節以外はひっそりと静まり返っています。夏の暑い日に訪れると、熱心に本堂でお経をあげている年配の男性以外の他に参拝客はいませんでした。本堂でお参りし、御朱印を頂くために朱印所へと向かいます。綺麗な石畳の小径は朱印所と庫裏の方まで続いていました。
山門の左側にある小さな地蔵堂に祀られたのが日限地蔵さまです。地蔵堂は比較的新しいものですが、お地蔵さまは平安時代初期に活躍した空海の作と伝わります。石仏なので風化して凹凸が少なくはなっていますが、穏やかな笑みを浮かべているように見えます。「日限」とは日にちを限るという意味で、定めた日数のうちに願いを叶えてくれるという所願成就のお地蔵さまとして信仰されています。また、北条政子が親の反対を押し切ってまでも頼朝と一緒になったという史実から、恋愛成就のお地蔵さまとしても親しまれ人気のあるスポットとなっています。歴史上では悪女とも言われる北条政子ですが、彼女にまつわる鎌倉の文化財やスポットは人気があるように思います。
こうして私の鎌倉二十四地蔵巡りは無事に結願です。達成感と後ろ髪を引かれるような複雑な気持ちになりながら、真夏の安養院を後にしたのでした。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行
鎌倉二十四地蔵には、番外札所というものが2つ存在しているようです。その一つ目が円覚寺の塔頭である伝宗庵です。ご本尊の子安地蔵さまは鎌倉国宝館に寄託されていますが、御朱印は拝観口にある朱印所でお願いすると書いていただけます。
拝観受付口を入って桂昌庵を過ぎた角を左に曲がり、松嶺院の裏手を回り込むように続く道を登って行くと北鎌倉幼稚園があります。この幼稚園と一体化するようにして残っているのが伝宗庵です。本堂や境内は幼稚園の一部となっているのでもちろん入ることはできません。円覚寺の公式サイトで境内案内図を見ると「伝宗庵(北鎌倉幼稚園)」と表記されています。唯一確認できたのは、幼稚園を過ぎたあたりにある石碑だけでした。幼稚園の屋根は立派な瓦で、園庭がなければ幼稚園とは気づかない佇まい。そういえば、ここの園児たちが朝元気良く仏殿の方へお参りしている姿も何度か見かけたことがあります。ご本尊の子安地蔵さまは、広大な寺院でのびのびと育つ子供達をお守りしてくれているのでしょう。
伝宗庵は長年住職不在の寺院となっているそうです。拝観口の朱印所で「番外の伝宗庵のお地蔵様の御朱印を。」とたずねると、しばらくわかってもらえませんでした。円覚寺にある鎌倉二十四地蔵の札所は、他に正続院と佛日庵の2ヶ所がありますので、そこと間違っているのではと思われたようです。既にいただいている二つの御朱印を見せると、伝宗庵の御朱印を頂くことができました。
鎌倉二十四地蔵の2つ目の番外札所は、十二所にある明王院です。五大明王を祀る真言宗の寺院で、毎月28日に行われる護摩法要は厳かな真言宗のイメージですが誰でも参加することができます。叶地蔵さまは参道の左手に祀られた石仏の半跏地蔵尊です。
明王院の建つ十二所は、中心地から最も離れた地域のひとつで、観光客はほとんど見かけない静かな住宅街が広がる場所です。お寺の裏山は飯盛山と呼ばれ、天園ハイキングコースから明王院の近くに降りてくることもできます。色々なアクセス方法がある明王院ですが、平日だったので一つだけある駐車場スペースに停めさせていただき参拝してきました。離れた場所ながらも鎌倉三十三観音と鎌倉十三仏の札所にもなっている由緒ある寺院なのです。素朴な茅葺き屋根のお堂の明王院ですが、参道入口から眺める姿は背後の飯盛山を讃えるかのような格好良い佇まいです。
朱印所で御朱印をいただくと、手書きで右上に「鎌倉地蔵尊 番外」と書き加えてくださいました。これは貴重でちょっと嬉しくなります。可能地蔵さまがどちらにいらっしゃるのか尋ねると、参道の脇に居ると教えてくれました。いつからいらっしゃるお地蔵さまかということはよくわかっていないのだそうです。
ついにこれで番外二つも周り終え、いよいよ結願となりました。長かった二十四地蔵巡りですが、まわってみるとあっという間です。なんだか名残惜しい気持ちになりながら、明王院に頭を下げて帰路に着きました。ぜひ二十四地蔵さまに加えて番外二つのお地蔵さまも巡ってみてください。
※参考文献 山越実 「鎌倉古寺歴訪 地蔵菩薩を巡る」かまくら春秋社 平成26年10月18日 発行